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小説『朝霧』 四話

 

正造の勘は当たったのか、長い髪を風に靡(なび)かせて颯爽(さっそう)と自転車は駅の方に走って行く。でも自動車は早い、途中で停車して彼女を待つ。今度は正造が走ってくる彼女に会釈をした。
すると行き過ぎた自転車が止まって「おじさん、さっき家の前で会いましたね」と明るい声で言った。
「はい」
「家に用事だったのですか?」
「弘子さんにそっくりだったので、ついびっくりして」
「そうだったの? お母さんの知り合いの方ですか? 時々言われます。お爺さんとお婆さんは、今日も朝から日帰り温泉に行っていますよ。家が閉まっていたので追いかけてきたのですか?」
静かに頷(うなづ)いて微笑む正造。
「用事なら伝えますけれど」と言う陽子に、正造は思わず名刺を差し出した。
陽子は名刺を見て、微笑みながら「保険屋さんね、お母さんをよく知っているのですか?」
「はい」と答えると、陽子は急に不思議なことを言った。
「携帯持っているのなら、電話番号教えてもらえませんか?」変わったことを聞くのだなと思いながら、最近買った携帯の番号を名刺に書き込んだ。
すると「おじさん、近いうちに電話します。聞きたいことがあるから、お願いします」
そう言って微笑みながら、会釈をして自転車で走り去って行った。一度も話していない弘子の娘に初めて会って会話をした。明るい雰囲気に、正造は信じられない複雑な思いだった。
でも本当に姿も形も声も似ている。ただ、違ったのは自分に話しかけてくれたこと。二年間一度も話せなかったのに、不思議な感覚なのだ。思い出して苦笑いをする正造だった。
あの子が陽子さんだ、弘子さんの娘さんだ。でも表札には三人の名前だけが載っていた。
子供を実家に置いて再婚? 正造は色々な想像をしながら、帰途についた。正造は昔のことを忘れるために行ったのに、思い出すことになってしまった事態に戸惑いを感じた。二十年前の記憶が蘇ったのだ。
自宅に帰った正造に、意外と早く彼女が電話してきた、驚いて正造は携帯を持つ手が震えた。
「おじさん、私、桜井陽子です、お母さんのことを聞きたいので会って頂けませんか?」
「ほとんど知りませんが」
「少しでも、お母さんのことを知りたいのです、お願いします。」
「陽子さんは幾つ?」
「高校卒業して、今大学に通学を春からしていますので、名刺の場所は電車の乗り換えで通過しますので、ご都合のいい時に寄れますので、お願いします」
「私は予定さえ事前に頂ければ、いつでも大丈夫ですよ」と言ったが、会いたいのが本音だった。驚きと喜びが同居していた。もう正造には自分の歳を考えることが出来なかったのだ、弘子と話が出来た、また会える、それだけだった

「おじ様、明後日伺ってもいいですか? 学校が早く終わるので、夕方お願い出来ませんか?」
正造はぼんやりとしていた。
「おじ様!」の声に急に我に返って「いいですよ」
「ありがとう」
「駅に着いたら電話ください、行きますから」
「はい」
携帯の電話が切れているのに、正造はずーと耳に携帯をあてて持っていた。
夢なのか? 二十年も経過して何が起こったのか? 信じられない正造だった。

夜、床に着いても夢を見ている気分だったのだ。忘れるよりも鮮明に思い出していた。翌日になって冷静に考えると、弘子はあの陽子を里に残して、男とどこかに逃避してしまったのだ。だから、母親の話を聞きたいのだ、可愛そうな子供なのだと理解した。
陽子からの連絡が待ち遠しい正造だった。

翌日、正造は朝からそわそわして落ち着かなかった。夕方になって陽子が電話してきた。
「今、駅に着いたの、名刺の住所に伺ってもいいですか?」
「わかった、駅で少し待っていて。迎えに行くから」
正造は車で迎えに行った。駅前に車を止めて陽子を探す。綺麗なストレートの黒髪で、後ろ姿でもすぐにわかった。
「お待たせ。車で来たから自宅まで送るよ」
「遠いから送って頂かなくても構いませんよ、悪いわ」
「時間があるから送りますよ」
正造は強引に車に乗せて出発した。昔は一時間半ほどかかったが、今は道路が良くなって急げば五十分で陽子の家まで着くのだった。
「すみません、それじゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます。駅に自転車置いていますので、駅ま
でお願いします」と軽く会釈をした。
弘子を車に乗せてドライブに行く心境になっていた。二十年の時を超えて実現した喜びにひたっていた。
「お母さんはどちらにいらっしゃるの?」
正造は一番気になることを尋ねた。
「私が小さい時にお父さんと外国に行ったと、祖父と祖母は教えてくれました」
「えー、外国ですか?」

「私を慰めるために祖父母が嘘を言ったと思います」
「何故?」
「祖父母は母のことは全く話しません。お前を捨てて行ったからだと怒っていますが、嘘だと思います」
「どうしてそう思うの?」
「家には母の物がほとんど無いのです。親戚の方が来られても、母の話は全くしませんから」
「不思議なことですね」
「父は養子に来たと思います」
「養子? 叔母さんの聡子さんには聞かれないのですか?」
「叔母さん? 聡子さん? その人は誰ですか?」
不思議な顔をする陽子、正造はまずいことを喋ったと思った。これは複雑な事情だなと思ったのだった。
「おじさん、知っていることを教えてください。お母さんの友達も誰も知らないのです、私は知りたいのです」
懇願する陽子。やっと自分の母親のことを知る人に会ったからだ。
「私のこと、お祖父さんかお祖母さんに言いましたか?」
「今日会うから言いませんでした。祖父母に知られると、多分おじさんには会えなくなるから。おじさんは祖父母に用事だったのでしょう?」
「いや、久々に近くに行ったので懐かしくなって寄っただけですよ。私もあなたのお祖父さんとお祖母さんとは面識がないのですよ」
陽子は笑顔になって「本当ですか? じゃあ、母のこと教えてください。母の友達も知っているのでしょう」
「少しは」
「少しでいいのです、私には何もないのです、父も母も」
あまりの訴えに、何があったのだ、私がこの家族から遠ざかってから、叔母聡子の存在もない。母の友達もいない。自分は当時日記を書いていたから、友達の名前も彼女達が話していた内容も、読み返せばわかるのだが。
その時、道路脇にレストランが見えた。
「陽子さん、何か食べますか?」
「おじさん、お腹空きましたね、食べましょう」と言ったのでレストランに滑り込んだ。
陽子は何かを聞き出そうと必死だった。
正造は祖父母が何故そこまで隠すのかがわかるまでは迂闊には話せないと思った。

「おじさんはお母さんと、どのようなお付き合いを?」
レストランに座ると陽子は正造が一番困る質問を投げかけてきた。
「正直に言います、私の片思いでした」
「えー! おじさんが振られたの? 今でも素敵だし、社長さんでしょう?」
「いやー当時はサラリーマンですよ」
褒められて照れくさい正造だった。
「嘘は言いませんよ」と笑った。
「聡子叔母さんって? 叔母さんってお母さんの兄弟かお父さんの兄弟よね」
「そうですね」
「お父さんの実家も知らないのよね、おじさんは知っている?」
「私は、お母さんが大学に通っていた二年間しか知らないのですよ」
「そうか、短大に通学していたのね。おじさんを振ってお父さんと結婚したのよね」と自分で納得していた。
ハンバーグ定食がテーブルに並んで「美味しそう、いただきます」嬉しそうに食べだした。正造は陽子が自分の子供のような気分になってきた。物心ついた時、既に両親は陽子の前から姿を消していたのだと思うと可哀そうになって目頭が熱くなった。
もしも弘子とデートをしていたら、こんな感じなのだろうか? 楽しかっただろうな? そう考えていたら「おじさん、お母さんの写真とか、持ってないの?」
「私はお付き合いしていませんから。すぐに振られちゃったからね」
隠し撮りの白黒の驚いた顔をした弘子の写真は、自宅に大きく引き伸ばした写真と、今免許証の中に入れている古ぼけた写真だけだった。驚いた顔の写真は見せられないと思った。見せると自分と弘子の関係が陽子にわかってしまいそうで恐かったのだ。
「聡子叔母さんって、おじさんは知っているの?」
「知りませんよ」
「じゃあ何故? 知っているの?」
実は、電車の中で聞いた会話で妹がいることを知ったこと、自宅を探した時に妹の名前が聡子ということを知ったのだとは言えなかった。
「お母さんに聞いたのね」
「まあ、そんな感じかな」
「でも変ね、お母さんに聞いたなら、姉妹よね、おじさん、何か隠しているの?」
しまった、迂闊に喋れない。正造は言葉に詰まるのだった。

 

 
 

 
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