この時、お互いが異性を感じたのだ。陽子はようやく落ち着いて眠りについた。正造の腕枕で安心して。正造も眠った。でも陽子のこの恐がりようは相当なものだと思うのだった。
陽子は子供の頃一人で寝ていて、山崎断層の地震で本棚が倒れてきたことがあったのだ。布団の端に本棚は倒れたが、その時、側には誰もいなくて、祖父母は下で寝ていて恐い思いをした。それから地震が怖いのだ。特に夜の地震には過剰反応をするのだった。
翌朝、照れくさそうに「昨夜はすみませんでした」と言った。
「地震が怖いのだね」
「子供の時に恐いことがあって、昨日一人だったらどうなっていたか」
「大丈夫だよ」
「必死でしがみついちゃいましたね、キスまで……恥ずかしいわ」
「気にしなくていいですよ、恐い時は異常になるものですよ」
「おじさんをお母さんから奪ってしまいそうです」
「えー」
今度は陽子の告白に戸惑う正造だった。
「朝風呂に入ります」
正造はむず痒くなって露天風呂に入った。昨夜の大雨が嘘のように朝日が差し込んでいた。
一体どうなっているのだろう? 二十年前、話も一度もしていない、もちろん手も触ってない弘子の子供とキスまでして、告白までされた。まだ会って二ヶ月ほど。何が起こっているのだ? 正造はわけがわからないが陽子のことは好きだった。弘子は一目惚れだけで性格も何も知らない。でも陽子は少なくとも性格も知っている。裸も見た、と言ってもシルエットだが。キスもした、デートも何回かした。風呂でそんなことを考えていたら、中の浴槽から「今は何も見えないでしょう、外が明るいから」
陽子もお風呂に入っていた。
「全く見えないよ、お風呂に入っているのも知らなかった」
「私の身体、綺麗?」
「綺麗ですよ、とってもね」
「そう、ありがとう。おじさんが初めてよ、見た人」
昨日までの陽子とは明らかに違う雰囲気があった。
陽子は咄嗟のことだったけれど、男性とキスをしたことに間違いはなかった。正造に異性を感じたのは間違いなかった。昨日までのお父さんは消えてしまったのだ。
朝食の時、仲居が「昨晩地震がありましたね」
「はい、恐かったです」
「熱海は地震には強いのですよ、坂が多いのですが、岩盤ですからね」
「でも地震は怖いです」
朝から沢山の料理が運ばれて来て「凄い量ですね」
「本当だ、これなら一杯飲めるな」
そう言うと正造がビールを注文した。ビールが届くと陽子が自分のグラスを差し出す。
「飲むの?」
「一人で飲むより楽しいでしょう」そう言いながら微笑んだ。
「お酒好きなの?」と聞くと「美味しいわ」
昨夜から陽子の態度が変わったことを感じた正造だった。
結局、二人が地元に戻ったのは夕方だった。陽子はそれから一時間後に自宅に戻った。
「お爺さん、ただいま。楽しかったわ、これお土産」
東京タワーの土産を差し出すと、「東京タワーに行ってきたのか?」と東京に行く以外はほとんどど聞いていなかったようだった。
(おじさん、今、自宅に無事、戻りました、どうもありがとう。とっても楽しかったわ)とメールを送った。(叱られなかった?)と返事が来て(大丈夫だったわよ)とメールが終わった。
陽子の頭には正造が一人の男性として残った。正造も陽子を女性と感じていたのだった。
翌日、陽子の携帯に聞き慣れない男性が電話をしてきた。それは先日会った野々村の長男、智也だった。
「先日お目にかかった、野々村の智也です」
「先日は突然お邪魔しまして、すみませんでした」
「実は夜、帰宅した父に聞きますと、叔母さんは飛行機事故で亡くなったと言いましたのでご連絡をと思いまして」
「飛行機の事故? 墜落ですか?」
「それは言いませんでした、父も詳しいことを知らないのかもしれません」
「ありがとうございました、また何かわかればお願いします」
「わかりました」
電話を切ってしばらくしてまた携帯に電話が。今度は弟の伸也が、父に聞きましたら、飛行機の事故は韓国だったようですと電話をしてきた。不思議に思ったが、二人の兄弟は陽子に一目惚れをしていたので、揃って父親に何か覚えていないかと問い詰めて聞き出したのだった。
陽子は正造に連絡をした。もしかして、大山順子の事故も韓国旅行? 飛行機事故も確かに交通事故だ。でも韓国旅行と陽子の両親の海外に移住したことは、結びつかないのだった。
弘子は陽子の顔を見て「一週間の辛抱でちゅー」産まれて一年の可愛い陽子は、母弘子を見て笑う。それは陽子が見た最後の母の姿だった。大きなバッグを持って玄関を出て行く、通りに車が待っている。
「お待たせ」そう言って乗り込む。
「真子を拾って、空港まで直行ね」
「充分、時間はあるよ」
「順子と真希は電車で行ったから遅れないわ」
「伊丹からなら楽なのにね」
「まあ、将来は伊丹から飛ぶだろうがね」弘子の主人の勝巳が言う。
「でも未だに信じられないわね、私達がモニターに選ばれるなんてね」
「それは、弘子が綺麗だからだよ、選考委員も顔で選ぶだろう」
「憧れね、ハワイで結婚式だなんてね」
「羽田までの運賃も出してくれればいいのにね」
「それは贅沢だよ」
「聡子は昨日から東京に行っているのだけれど、大丈夫かな?」
「聡子さん、しっかりしているから大丈夫だよ」
車は笹倉真子の家の近くに着いた。外に真子が待っている。
勝巳は弘子より四歳年上で、セントラル旅行社の東播支社に勤務していた。そのセントラル旅行社で翌年から売り出す海外で挙式のモニターの社内募集に応募したのだ。条件は結婚式を行っていない結婚三年以内の社員。もしくはこれから結婚をする社員が対象だった。
勝巳は弘子がすぐに妊娠をしたので結婚式を行ってなかった。陽子が少し大きくなってから式だけでも行う予定だったのだが、こんな企画が持ち上がって応募して当選するとは夢にも思わなかったのだ。招待客十名と本人達の計十二名が無料でハワイの結婚式場で挙式をされるのだ。両方の父も母も飛行機が恐いと辞退した。家族で参加は聡子と清巳の二名、他は友人だった。参加者は夢のハワイ旅行に行けると大いに喜んだ。東京羽田までの旅費なんて、大した問題ではなかった。一流ホテルに宿泊してカメラで撮影されるのだが、ほとんど来客は写らないから心配ないと言われていた。
新婚さんの荷物が大きいので、兄の清巳は勝巳の友人と空港に、二台に分かれて向かったのだ。伊丹空港から羽田で合流して、韓国の航空会社でハワイに向かうのだ。それはこの企画が安価で海外挙式を、がテーマだったから。
総勢十二名が羽田に集まり、韓国の空港を経由でハワイに向かったのだ。だがハワイには到着しなかった。金浦空港に到着の前に、消息が……だった。懸命の捜索の甲斐もなく行方不明で終わったのだった。日本人の乗客は二十人程度でほとんどが韓国とアメリカ人だった。日本の捜査が出来なかった。
桜井直樹、俊子夫婦には一瞬で子供二人が消えたショックは計り知れなかった。旅行社に尋ねる以外に方策はない。その後、北の拉致の噂も出たが、証拠も何もなかった。夫婦は諦めきれなかった。そのため何年経過しても墓も位牌も存在していなかった。一人残された陽子が、両親のことを知ると悲しむのと、大きくなって探しに行くとでも言い出したら大変だと、両親は海外に行ったと教え込んでいたのだった。
もうすぐ十七年の月日が流れようとしていたのだ。陽子の小さい時は、まだ望みも持っていたが、ここ数年は陽子の成長だけが直樹たち二人の楽しみなのだ。