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小説『朝霧』 二十九話

 

農繁期になって直樹と俊子は農作業に。しばし陽子たちのことを忘れていた。
その朝は朝霧が田畑を覆っていた。
「今朝は露が多いから、昼前から刈り取りだな」
コンバインで刈り取ると農協のライスセンターに送って、自宅では何もしないから、昔に比べると格段に楽になっていた。本当なら、休みに勝巳さんと一緒に稲刈りをしていたのだろう。
直樹は毎年、農繁期になると同じようなことを考えていた。毎年身体が衰えるのが自分でもわかるから尚更だ。
「もう数年で稲作も、農協か誰かに頼まないと無理ですね」
俊子がしみじみと言う。
「勝巳君がいたら、頼まなくてもよかったがな」
「わかりませんよ、勝巳さんは遊び人だったから、農業手伝ってもらえたか?」
「そうだな、先日の話を聞いていると、無理だったかもしれないな」
「新婚早々に浮気をする人だったから、今頃は離婚になっていたかもしれませんね」
「知らなかったよ、その話は。困った男だったんだな」
直樹が土手を見上げると、白い車が止まっている。随分前に見た光景だ、二十年以上前に
………。
直樹が「昔もあのような車が毎週休みに止まっていたな」
懐かしそうに言う直樹。
「お爺さんが警察に言わないで、弘子に教えていたら、事態も変わったのでしょうね」
「そうだったな、あの田宮さんには無実の罪だったのだな、随分大袈裟に警察に話したからな」
直樹は申し訳なさそうに言う。
「長い間苦しんだと思うわ。陽子のことはお爺さんの罪滅ぼしで許してあげたらどうですか?」
俊子が、説得するように話す。
「そうだなあ、そうするか」
直樹がそう言った時、土手の白い車の助手席の扉が開いて女性が降りて、二人に向かってお辞儀をした。その姿を見た直樹が大声をあげた。
「おい! 俊子、あれは!」二人の驚く顔。
「弘子よ!」
二人は大急ぎで土手に向かって走る。老人の足とは思えない早さで。
「弘子!」
「弘子!」
「弘子、待ってくれーー」
「行かないで、弘子ーーー」と叫びながら土手にあがると、車は朝霧の中に吸い込まれるように消えてしまった。
呆然と立ち尽くす二人、どこにも車も弘子の姿もない。
「あれは、弘子に間違いない」
「そうよ、弘子だった」
「あの車、田宮さんの車?」
「わからない」
「でも、弘子に間違いないわ」
「あの服装は、最後に出て行った時の服装だよ」
すると、みるみる朝霧が晴れた。俊子が直樹にしみじみと話した。
「お爺さんが陽子のことを許すと言ったからお礼に現れたのよ」
「嘘だろう」
「でもそれしか考えられないわよ」
「霊が彷徨(さまよ)っているのか?」
「霊でも会えたじゃない、弘子に。嬉しいわ」
「聡子は?」
「弘子には陽子が心配で、成仏出来ないからよ。一歳だった我が子が心配なのよ」
「……」
「好きな人と結婚させてあげないといけないのよ」
「供養をして、墓も作ろう」
「そうしましょう、可哀そうだわ、子供たちが」
二人は懐かしい弘子の姿に感激をして、二人の結婚を許そうと思った。
二人がその日の夜、陽子に「今朝、土手にお前のお母さんが現れたのだよ」と言うと
「えー、嘘でしょう? 占い師?」
「違うわよ、弘子がこの家を出て行った時の服装で来たのよ」
「それじゃあ、お母さんと話をしたの?」
「いいえ、弘子はお前と田宮さんの結婚のお礼に現れたのよ」
「えー、それって、許してくれるの?」陽子が驚きの表情で尋ねた。
「お爺さんが、お前達の結婚を許そうと言ったら、土手に現れてお辞儀をしたのよ、私たちが大急ぎで走って行ったら、消えてしまったわ」
「本当にお母さんだった?」
「見間違えるはずがないだろう、私たちが」
「じゃあ、結婚出来るのね、ありがとう、お爺さん、お婆さん」
陽子はうれし涙で、くしゃくしゃの顔だったが、小躍りをして喜んだのだった。
早速、電話で正造に伝える陽子。
「正ちゃん、お爺さんたちが、私たちの結婚を許してくれたのよ。嬉しいわ」
「ほんとうですか? よかった」
「結婚式は卒業してからだって、いいかな?」
「二十五歳までに二人の子持ちなら結婚式は子持ちだね」と言って笑ったが、正造の声は明るく弾んでいた。歳の離れた正造と陽子には多少恥ずかしいが、関係ないのかも。
しばらくして陽子は正造の家から学校に通学して、時間と通学代の節約。通学に体力を使わなくてもいいから楽なのだった。そして休みに実家に帰るという変わった新婚生活を始めるのだった。日曜日、祭日、夏休み、春休み、冬休みがお爺さんたちと過ごす時間になった。何度かに一度は正造もやってくる。四人で和やかに話をしたり、近くに旅行に行ったりする。すっかり、二人は正造のファンになっていた。
「お爺さん、田宮さんはいい人ですね」
「本当だ、年寄りの気持ちをよくわかってくれる」
「至れり尽くせりとはこのことですよ、あの時弘子に話していたら?」
「今頃は、もっと……」
そう言い掛けて、涙を流していた。
「私たちより、陽子はもっと可愛がってもらっていますよ」
「そうなのか?」
「だって、陽子の顔を見ればわかりますよ、歳が離れているから、田宮さんも子供と奥さんの両方の顔を陽子に見ているのでしょうね」
「よかったな、二度も失敗出来ないからな」
二人は正造に対して、満足していた。
二年が過ぎた冬、学校に通学中には子供は産まない約束の二人にはあの占い師の言葉が気になって仕方がなかった。
「二十五歳までに二人の子持ちでしょう? 本当かな?」
「お母さんの占いだから確かだよ」と笑う正造。
「でも子供が成人したら正ちゃん七十歳だよ」
「医学も発達するから、長生きするよ」
冬の寒い日、二人は大きな湯船に入ってそんな話をしていた。
翌朝、笹倉のお婆さんが亡くなった、の知らせが届く。
「早く、結婚式をしよう、知り合いがいなくなると寂しいよ」
葬式の帰りに陽子が正造にそう言って甘える。歳の離れたカップルには、お互いの身内の年齢が気になるのだ。直樹も七十歳を超えて俊子も七十歳。正造の父良造の病気を理由に結婚式を許してもらおうとする。正造はすっかり直樹と俊子に気に入られていたから。
「そうだな、みんな、歳が行くな。わしも俊子も元気なうちに、結婚式を見たい、娘の結婚式を見てないからな」
「そうですよ、陽子の結婚式を冥土の土産にしましょうよ」
「お婆さんたちには、私の子供が成人するまで生きてもらいたいわ」
「無茶を言うね、陽子は。百歳を超えるよ」
「大丈夫よ、少なくとも私が四十五歳には成人よ」
占い、母の言葉を信じる陽子なのだ。しばらくして二人の結婚式が行われて、直樹も俊子も感無量だった。娘二人の花嫁姿を見られなかった二人にはこの日は格別な日になった。
涙でくしゃくしゃな二人に「お爺さん、お婆さん、私を育ててくれてありがとう」と言うと、
もう二人は、涙で、涙で。
「これで、いつ死んでもいいわ」
「弘子に怒られずに済むよ」と泣きながら言う。キャンドルサービスの火がすべて燃えさかった。その時突然、一斉に消えた。
「わー」
「えー」
「何?」
「きゃー」と声がした時、すぐに燃えさかる蝋燭の炎になった。正造と陽子は顔を見合わせて
「お母さんだわ」
「そうだよ、弘子さんだ」
会場の人たちは演出の素晴らしさに拍手をしたが、会場関係者は背筋が凍っていた。
「何が起こったの?」

「わからないわ」
もう二人わかっていたのは直樹と俊子だった。あの朝霧の土手で車から降りてお辞儀をした弘子の姿を思い出していた。
「弘子も喜んでいるわ、お爺さんよかったね」
「そうだね、弘子がここに来たのだな」
四人には暗闇の中にいた弘子が見えたのだ。手を振って祝福する姿を。
二月の寒い結婚式が終わって、陽子が四年生の夏、体調が変化した陽子。妊娠がわかったのだった。正造の喜びは最高だ。病院の帰り道で「不思議ね、正ちゃんの実家では初の内孫なのに、桜井の家ではひ孫だよ、ほとんど歳は変わらないのにね」
「それは俺が陽子を待っていたから遅れたのだよ」
「待っていてくれたのね?」
「そうだよ、二十年も待ったんだよ」
「じゃあ、二十年長生きしてよ、子供が大きくなって、私がお婆さんになるまで」
「そうだな、二十年寄り道したからな、明日、両方の家に報告に行こう」
「喜ぶわ、お爺さんもお婆さんも」
急に陽子が微笑みだして
「あのね、内緒だったのだけれど」
「何?、内緒はないはずだったよ」
「明日、発表予定だったけれど……」
「おい、勿体振るなよ」
「では、では、正ちゃん驚いたら駄目よ」
「うん」
「実は妊娠は嘘でしたーー」
「嘘?」失望に変わる正造に、笑いながら「じゃーん! 双子ちゃんなのよ」
「えーーー」驚く正造。
「二十五歳で二人の子持ちは当たりだね、あの占い師はお母さんだからわかるわね」と笑う。
「凄いね、双子か、男の子だね」
「何故、わかるの?」
「占いでは男女で一人が桜井の家を継ぐのだろう」
「田宮家が男女で桜井家が男ね」
「明日発表だね」
その夜、嬉しくて眠れない二人。
「おいで」と呼ぶ正造。二人は今夜も抱き合って眠るのだった。
翌朝、良造と春子に妊娠の報告をすると「お父さん、待望の内孫よ、陽子さんの子供なら美女か美男子だわ、楽しみ」
「男の子だよ、それも双子だよ」
「えー! 嘘でしょう」と叫ぶ春子。
「一気に追いつくな、正造」と良造が肩を叩いて喜んだ。
「今から、桜井の家にも報告に行ってきます」
「お爺さんたちも喜ぶよ」
二人が桜井の家に向かった。
「こんにちは」
「おお、その声は陽子たちだな、いいところに来たな、今スイカを食べようとしていたんだ、一緒に食べよう」
「今年は上手に作ったのよ、帰りに田宮の家にも持って帰って」
「ありがとう」
そこに遅れて正造が入ってきた。
「ご無沙汰しています」
水菓子を差し出して
「冷やしてお召し上がりください」
「いつも、すみませんね、気を使ってもらって」
「お爺さん、お婆さん今日は重大発表を持って来ました」
長い黒髪を掻き上げて側で微笑む陽子。
「何? 陽子の重大発表は?」
「子供だろう」俊子が言うと「あれ、わかった?」
「もう三年も一緒に住んでいる男女の重大発表は決まっているわ」と微笑んだ。
「それが、少し違います」
「えー、違うの?」と笑いながら驚いてみせる俊子。
「はい、桜井の家にも大いに関係があります」
「何よ」
「実は、双子ちゃんですよー」陽子が微笑んで言うと
「えー」
「双子か、田宮さん、遅れを取り戻しましたね」と笑った。
実家と同じことを言われて照れ笑いの正造。
「お爺さん、無事に男の子が生まれたら、一人は桜井家の跡継ぎよ」
「えー、そんなこと、気にしなくてもいいのに」
「いいえ、お母さんの希望ですから」
「弘子の?」
「そうよ、占い師になってそう言ったのよ。子供は三人、男の子が二人で女の子が一人。一人は桜井の家を継がせてとね、だから決めているのよ」
「陽子、ありがとう、ありがとう」
「田宮さんもすまないね」俊子が言う。直樹がうれし涙を流して言う。二人はまた泣きだした。
「わしは何と悪い父親だったのだろう。こんなにいい田宮さんを……」直樹は泣き声で最後まで言えない。
「そうですよ、お爺さん。田宮さんは私たちに夢をくれたのですよ、長生きしてくださいよ」俊子が諭すように言う。
「そうだな、成人するまで生きないと駄目だな」
「弘子はこの家のことを死んでも考えていたのね」
俊子が今度は大泣きをして、台所に走って行った。
しばらく雑談をして、スイカを食べてから二人が帰ろうと玄関に出ると庭にユッカが小さな葉っぱを出している。
「お爺さん、あれ」と指をさすと「最近出てきたのだよ、不思議だよ」
「正ちゃん、私たちがお母さんだと思ったのもユッカの植木だったよね」
「昔、ここには大きなユッカがあったのだ、それを切ろうとしたら、まだ幼い弘子が泣いてね、困ったのだよ」直樹が思い出を語る。
「それが、また出てきたの? お母さんかもしれないわね、ずーと見守るのよ、桜井の家をね」
陽子も小さな葉っぱを見て言う。
「そうかもしれないね」正造も不思議そうに見ていた。
遅れて俊子が大きなスイカを持って出てきた。
「これが一番美味しそうよ」
「ありがとうございます」二人が会釈をして帰ると
「お爺さん、よかったね、跡継ぎだって」
「弘子を無理に勝巳さんと結婚させて守ろうとした家を、引き離した田宮さんに助けてもらうとは思わなかったよ」
皮肉な結果に嬉しさが込み上げる二人だった。

 

 
 

 
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