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小説『朝霧』 三十話

 

翌年、陽子は占いの通りに男の子の双子を出産した。初産にしては安産に、正造を初め、両親も、直樹、俊子も、喜んで病院に駆けつけた。
「桜井家には待望の男の子の跡継ぎだ」
感無量の直樹に俊子が「田宮さん、ありがとうね、私たちが意地悪したのに桜井の家のことまで考えてくれて。足を向けて寝れないわね、ねえ、お爺さんそうですよね」
「その通りだ、可愛いな、この顔、見てみなさい」
ガラス越しに見るひ孫の姿に目を細める二人。
「お爺さん、長生きしましょうね、この子が二十歳になるまで、頑張りましょう、桜井の家に来てくれるまで」
二人には宝物のような子供の誕生なのだ。

数年後。
「早く準備しなさい、桜井家の墓参りに行くわよ」
明るい陽子の声が室内に響く。
「お母さん、翔太、起きないわ」
長い黒髪の佳奈が陽子に言う。親子三代続いて似ている。陽子は今でも、長い黒髪だ。正造の好みだから、伸ばしているのだ
「自分の家の墓参りに、寝ているの?」
陽子がそう言いながら翔太の部屋に行く。
「お父さんとお兄ちゃんがもうすぐ帰るよ」
「双子なのに、何故こんなに性格が違うのよ」
佳奈が高校二年生、翔太、翔一は大学一年。翔一は運動が好き。翔太は運動が苦手。ゲームが大好き。翔一は今日も父正造と二人で朝のジョギングに出掛けていた。秋の彼岸に家族で墓参りに行くのだ。もう九十歳を超えた直樹と俊子に会う楽しみもある。正造も歳を感じる年齢になっていた。良造は三年前に亡くなって春子は健在だが、最近は痴呆が進んでいるようだ。翔一が実家に住んで祖母の様子を見ているのだ。
二人が帰ってきて「翔太はまだ寝ているのか?」正造が怒ったように言う。
「起きないのよ」
佳奈が正造に言いつける。正造が寝室に行って「おい、翔太起きないのなら、桜井の家に置いてくるがいいか?」
そう言われて慌てて起きる翔太。

「いえ、起きますーー」急に飛び起きる。
子供の頃から、この言葉が一番堪えるのだ。勉強が出来ない時も特効薬だ。実は桜井の家を継ぐのは翔一なのだ。翔一は正造に言われて心得ていた。勉強も翔一が出来るから。いつも翔太はこのように言われてようやく行動をする感じなのだ。
五人が乗ると狭いので去年からワンボックスの八人乗りの車にしていた。
「お爺さんも、お婆さんも首を長くして待っているわよ」
陽子が言うと「元気だね、お爺さんもお婆さんも」正造が言う。
「百歳まで、大丈夫だね」翔一が言う。
「長生きの秘訣があるのかな?」
農業で鍛えた足腰は九十歳でも元気で、近くの畑で野菜とか果物を栽培していた。さすがにお米は親戚に耕作を依頼していた。
五人は土手に車を止めて歩いて家に向かう。四十年前と変わらない風景がそこにはあった。陽子と子供達が先に土手から降りて行く。車を道の端に寄せて正造が運転席を降りると、川面にキラキラと光る物が見えた。正造が目を凝らして見ると随分久しぶりに弘子の顔が川面に見えた。
「何?」それはすぐに消えた。幻影かそれとも何かの知らせか? そう思いながら、桜井の家に向かう。稲穂が色づき始めている。玄関先の庭には大きくなったユッカが出迎えてくれた。
結婚を許してもらった時に、小さな芽が出ていたな。
「ご無沙汰しています」と正造が遅れて入ると「あなた、今テレビでニュースをしているわ」と陽子が正造に言う。
正造が大型のテレビに目を向けながら「何の?」
「四十年くらい前の事件よ」
陽子が教える。
「四十年前の事件って?」
それは韓国の飛行機を撃墜したニュースだった。
今まで公にならなかった忌まわしいことだ。
「お母さんが乗っていた飛行機よ」
驚いた顔になる正造。
「本当だ、何故、今頃?」
「政治的な意図で内密になっていたそうよ」
「お爺さん、お婆さん見ましたか?」
真剣に見ていた直樹と俊子。

「あれは、弘子と聡子の乗っていた飛行機か?」
「そうよ、撃ち落とされていたと今頃、発表したのよ」
「お爺さん、私たちが生きている間に真相がわかったのね」
俊子が驚きながら言う。
「そうだな、覚悟はしていたが、拉致ではなかったのか」
少し呆けた直樹が言うと俊子が「少しだけ生きている希望もあったけれど、これで安心して弘子たちに会えますね」
翔一が「僕たちのお爺さんとお婆さんが乗っていたの?」
「そうよ、結婚式をするためにね。ハワイに行く途中だったのよ」
すると翔太が「結婚式が葬式になったのか」と言ったので「こら、何ということを言うのだ」
と正造が頭を叩いた。
その場の雰囲気が暗くなった。遠い昔を思い出しているのだろうか? 亡くなった人の名前も何もニュースにはならなかった。余りにも前の事件だった。犠牲になった陽子の両親と妹。
もう遠い過去の話なのだと、時間の経過が恐い正造だ。
「お墓に行きましょうか?」
突然、陽子が言い出した、骨も何もない両親の墓に、七人が家を出て近くのお寺に向かう。杖を突いて歩く直樹と俊子。後ろ姿を見ながら、正造は違うことを考えていた。さきほどの川面の弘子の姿だった。十八歳のままの綺麗な弘子が自分をもう一度呼んでいる。そんな気がしたのだった。
「お爺さん、今日のニュースで、お墓に名前も刻みましょうか?」
「そうだな、もう死んだんだなあ、三人の名前を刻むか」
直樹が諦めた様に言った。
いつもに比べてみんなの手を合わせる時間が長かった。
「位牌もお願いしましょう」
俊子も諦めた様に言った。
七人はニュースの影響でしんみりするのだった。ニュースを聞いてもまだ信じられない直樹と俊子なのだ。
その数年後、二十歳になってしばらくして翔一が桜井翔一に名前を変えた、その話を伝えるためにいつものように、一人で土手に車を止めた。あのニュースが流れた日に見た川面の弘子の顔は、ニュースを知らせたのかもしれない、そのように思っていた

秋の風が頬をなでる、川面には何もない、美しいせせらぎ、何かが光る。あれは? 見間違い? と思った時、辺りに霧が。あの朝霧が漂った。瞬く間に朝霧に包まれる、向こうに幻想的に桜井の家が浮かぶ。川面も霧が一面に覆う。
「弘子さん?」思わず呼びかける正造。川面から、一人の少女があがってくる、長い綺麗な黒髪で、それは弘子ではなかった。
「誰ですか?」思わず尋ねる正造。
「お父さんを迎えに来たの」それだけ言うと、霧の中を桜井の家に向かって行く。
「……」
少女は霧の中を歩いて土手から降りて行く。その後、弘子が現れた、川面からあがってきた。
「弘子さん」と声を掛ける正造。その声が出せなかった、四十数年前を思い出す。何故? 何故? あの時、言えなかったのだろう、この一言が?
「私が一言、言えなかったのが、不幸にしてしまったのですね」
「いいえ、運命です」そう言って微笑む。
「あなたの娘さんと結ばれたのは偶然?」
「いいえ、運命です、これからも可愛がってください、陽子を。私のことは忘れて。あなたの思いは強すぎます」
「陽子さんを愛していますが、あなたも忘れられません」
「もう許してください、今日でお別れです」
「何故です?」
「ありがとうございました、ありがとうございました」
弘子がお辞儀をすると、そう言って川面に消えた。
そして霧は一瞬でなくなった。急いで桜井の家に向かう正造。さきほどの少女の言葉が気になって。すると直樹が眠るように亡くなっていた。
「先日から風邪をこじらせていたのです」
俊子が正造に話した。傍らの町医者と看護師が「ご臨終です」と言った。呆然とする俊子に「お婆さん、すぐに陽子を呼びます」
急いで来るように電話をする正造。さきほどの少女は聡子さん? 疑問はすぐに解けた。
「聡子が迎えに来てくれたのだよ」俊子が見えたのか、そう言ったのだ。
そして、喪主、桜井翔一で葬儀は四人の合同葬儀になった。四十年後の葬儀だった。大爺さん直樹、祖父勝巳、祖母弘子、大叔母聡子。直樹と三名の位牌が作られてようやく事件が終わったのだ。

翔一がお婆さんの面倒を見るために桜井の家に時々行くことにする。大学を卒業したら地元の就職口を探して、お婆さんと一緒に暮らすと言う翔一に涙する俊子だった。
「すまないね、翔一」
「当然ですよ、僕が桜井の家を守っていきます」
「翔一のお嫁さんを見るまで、生きてないと駄目だね」
「そうだよ、お婆さんには三人の分まで長生きしてもらわないと」
その後、俊子の話が本当だったと、正造はアルバムの写真を見て少女が予想した通り聡子だと確信した。一度も見たことにない人が見えたのは幻ではなかったのか? 正造は陽子に話すべきか迷っていた。しかし、弘子の最後の言葉「もう、許してください」が心に残っていた。これからは弘子を完全に忘れるのだ。自分が愛しているのは陽子なのだと言い聞かせるために話をしたのだ。
陽子はそれを聞いて「お母さんも、諦めたかったのよ」
「何故?」
「お父さんと結婚したけれどそれは、不本意な結婚だったから、自分を愛してくれる人と結婚したかった夢が霊魂で現れたのね」
「もう、会えませんと最後に言ったよ」
「それは、お爺さんが亡くなって、一緒に天国に行ったからよ」
「長い間、彷徨(さまよ)っていた?」
「多分ね、お父さんは残念だけれど愛されていなかったのよ」
「でも、私も一度も話をしてないよ、お母さんと」
「お母さんは亡くなってから正造さんの愛を知ったのよ」
「霊魂の恋?」
「そうかもしれないわ、私には勝てない相手ね」
「いいや、私は陽子のことを愛しているから、もうお母さんは忘れたよ」
そう言って抱き寄せる、長いキスをする二人。この時、正造の脳裏の弘子は消えた。二十六歳の年の差を完全に克服した二人だった。
数日後の早朝、久々に翔一と陽子の三人で桜井の家に行く。朝の空気がうまい。川面を指さして「あそこからだよ」と言うと、翔一が「魚がいたの?」というので二人が笑った。
土手の下で俊子が手を振っている。翔一が渡してある携帯が鳴る。
「早くおいで、美味しい料理があるよ」と言って切れた。いつも要件だけの電話だ。それでも俊子には充分だった。
「お婆さん、朝から何を作ったのだろう?」
「翔一、桜井の家を頼むよ」
「任せて!」
もう何度来たんだろうこの土手に。そう思いながら、陽子と手を繋いで土手から家に向かう正造だった。今頃、朝霧が出てきた。いつもの風景だった。
「美しい」と口走ると「私が?」と振り向く陽子に、ただ、頷(うなづ)く正造……朝霧の風景が素晴らしいのだ……。

 

 
 

 
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